それはマウンティング
自分がどの立ち位置で話しやすいとか、何を相手に仕事をしたいとか。
世の中を良くしたいという、舌触りのいい建前がせりでてくることは多いけれど、
結局は自分のエゴである。自分の視界。自分の色眼鏡。
上からの視界である場合はマウンティング。
やっぱり気持ち悪いや。
恋愛を
恋愛を前提とするコミュニケーション、を客観視できるドラマを視聴している。
「だって好きなんだもん」
という言い訳でされる行動は、種を残そうというホルモンの働きによる。多くは勘違いを含む、論理ではない、やや暴力的な感情がともなう。
「コミカル…」
と思うのは、自分のホルモンの働きが弱まっているせいかもしれない。本来の性質も相まって、もう恋愛はしないだろう。でも年をとっても恋愛に走るひとはいる。それはホルモン的恋愛なのか、もしくは趣味的恋愛なのか。
私は恋愛、でなくて人間愛について考察を深めたい。
伝える力
伝える力は、音圧だ。
滑舌、イントネーションはまずは置いておいて、自分の限界を超えていくように、肚から声を出す。
出せるのに、ぜんぶ出せないのはタイマンだ。出し惜しみだ。
常に、出し惜しみして生きている自分が
奥深くから揺さぶられた。
脳が発火している
していた、が正しい。
脳にとって新しい、ワクワクがとてつもなく溢れていた。それは間違いない。
それをするときに、それを学ぶときに、あった。それは人をひきつける素であることは知ってるから、ちょっとまずいなあという気にもなってる。
でも、もうない。
無理にワクワクする必要はないし、焦っても責めても意味はなし。
いま私がワクワクするのは家にかえってのんびりすることだ。ご飯のことを考えることだ。
目の前の
10年ぶりくらいで歌舞伎をみた。
演目に馴染みがなかったけれど、菊之助さんを見られるのが楽しみで。
席は舞台の一番前、ど真ん中。
こんなに間近に見たことはない。
幕を引く音、出番を告げる声、おはやし、太鼓、全てがいきいきとしていて。
何より役者さんの表情が、こんなにも、その場を生きていて、
しっかりと型や拍子を追っているはずの泣き声や動作が生きていて、
歌舞伎を見る楽しみはこれなんだろうとはっと驚いた。
主役以外は、人間の内面がそがれて、形になってさっぱりしている。
菊之助さんの東屋はしっかり作り込まれた憎しみや悲しみを切れるような美しさで見せてくれる。
吉右衛門さんの俊寛はもちろん作り込まれているけれど、どこか遊びがあって、生っぽくて、役や振り付けのなかで起こってくる感情を味わっているなあ、内面が蠢いているなあと、目が釘付けになるとはこのことで、幕切れの瞬間まで表情から目が離せなかった。
必要か
したいか、したくないか。
の視点になりがちだが、本当に持ちたいのは
必要か、必要でないか。
という視点。
必要か。
という視点には目的が求められる。